バレンタインキッス


しゃかしゃかと、軽く金属がこすれあう音がする。その音を奏でている金属の器は、幾重にも茶色い波紋を描いていた。
 そこに、やかんから熱々の熱湯を注ぎ込む――

「ちょっと霊夢さん! ストップストップ!」
「え?」
 緑髪の少女の静止は間に合わず、茶色い海が広がっていく。その光景を見て彼女はがっくりと肩を落とす。
「さっき言ったじゃないですか。お湯は直接入れるのじゃなくて、下のボウルに入れて暖めるんですよ……」
「う、五月蝿いわね。ちょっと間違えただけじゃない」
 彼女は私からボウルを取り上げ、中身を確認すると、再びため息をついてそのボウルを流しに置いた。
「いやいや、この間違いはちょっとどころじゃありませんからね? これじゃもう使い物になりませんよ……。そもそも、お菓子作りで適当にやるというのはナンセンスです!」
「……すいませんでした」

 さっきから何度も間違いを繰り返している私には、お菓子作り師匠である早苗に謝ることしか出来ない。
「霊夢さん、よく聞いてください」
 彼女は一呼吸置いて、袋から三枚の板を取り出す。
「これが最後の材料です。……言いたいことは分かりますね?」
 つまり、もう失敗はできないということだ。
「……もう失敗しないわよ」
「お願いしますよ? 霊夢さん」
 そう言われて受け取ったチョコレートは、なんだかやけに重かった。



 早苗曰く、外の世界にはバレンタインという風習があるらしい。親しい人や恋人にチョコレートなどのお菓子を送る日なのだとか。
 ――恋人。
 その単語を聞いただけであいつの顔が浮かんでくるのだから、私も単純なものだ。
 私がプレゼントしたら、紫は喜んでくれるだろうか? もしかしたら抱きしめてくれるんじゃないか? いやもいや、それ以上かも……。
 そんなことを考えると自然と口元が緩み、慌てて口を閉じて付近にスキマがないかと警戒する。傍から見たらさぞ間抜けな後継だろう。
 
 私も紫にチョコレートを送ろう。

 そう決めるのにはさほど時間はかからなかった。
 しかしチョコレートというものを聞いたことはあるが、実際食べたことはない。作り方も勿論知らない。
 よって、分社の手入れに来ただけの早苗に白羽の矢が立った。もっとも、彼女の根がいいのか、拍子抜けするぐらいあっさりと快諾してくれたのだけれど。



「むぅ」
 トリュフは溶かして冷やして、丸めるだけだから簡単――そう言ったのも早苗だっただろうか。確かに言葉通りの調理法である。しかし、だ。
「チョコを沸騰させたら分離しちゃいます!」
「そんなに勢い良く混ぜたら空気を含みすぎて汚くなっちゃいます!」
「湯煎で温度をよく測って一定の温度に保ってください!」
と、やたらと細かい指示が多い。
 これでも簡単なのだというから、菓子職人というのは几帳面じゃないとできない仕事だろう。そうに違いない。そうであってくれないと、私がずぼらだと言われているようで、いい気はしない。
「霊夢さん、落ち着いてやれば出来ますから。そう、ゆっくりとかき混ぜて……」
 ヘラを持つ手がプルプル震える。
 ――気を抜いちゃ駄目。霊夢、集中よ、集中するのよ!
 そう自分に言い聞かせ、丁寧にチョコレートを混ぜていく。やがて、想いが届いたのか、生クリームに浮かぶチョコレートは全て溶け、滑らかな表面が光を反射する。
「き、綺麗に混ざったわ!」
「霊夢さん、お疲れ様です。後は少し冷やして、丸めるだけだから簡単ですよ!」
「じゃあ後少しなのね! やったわ!」
 嬉々としてボウルを持つと持っていく。
 何もかも初めてで、失敗ばかりした。けれど、後もう少し頑張れば紫に喜んでもらえる……。そう思うと心が踊りだしてしまう。
 その時だった。
「霊夢さん! 危ない!」
 早苗が慌てて私を引き止める。が、もう遅かった。
 私の左足がテーブルの足に引っかかる。その拍子にボウルは私の手から離れ、空へと舞う。回転するボウルからはまるで滝のようにチョコレートが飛び散っていく。
「あぁ、チョコが!」
「――っ! 間に合って!」
 ボウルは地面に落ちる直前、間一髪の所で早苗の作った風の渦に受け止められた。



 結局、最後の最後まで失敗した。
 何度も何度も失敗した。
 単純なことばかり失敗した。
 けれどもう失敗することもない。これ以上何も作れないから。
「ごめんなさい……」
 どうしてこんなことになったのだろう。調理場にはもう甘い香りしか残っていない。
 早苗は私を見なかった。きっと呆れてしまったのだろう。ダメな子だと思われたのかもしれない。
 けれど、そんなことよりも、紫にプレゼントすることができなくなった。――最悪だ。
 ポロポロと涙がこぼれ落ちる。泣いた所で何も戻らないのに。

 早苗が声を出したのは、そんな時だった。
「……霊夢さん、諦めるのは早いです。このボウルに残ってる分で何とかなりますよ」
「え?」
 ボウルの中には、僅かに残ったチョコが固まり始めていた。確かに二つ三つ程度なら何とかなるかもしれない。
「私の分は何か他を考えますから。霊夢さん、こんなに頑張ったんだし、ちゃんと完成させてプレゼントしないと。ね? 後少しですよ」
 こんなに失敗したのに、彼女は笑顔で私に手を差し伸べてくれる。その事が今の私には、とても、とても有難かった。涙は一層勢いを増して溢れ出ていく。
「早苗、ありがと……」
「ほら、そうと決まったら冷え切らないうちに丸めますよ! 涙拭いて!」
「……わかった」
 しわくちゃになった袖で、ごしごしと顔を拭き、早苗からボウルを受け取る。そして、それを慎重にテーブルへ置いた。
 ――頑張らないと。こんなに応援してくれているのだから。
 私は決意を固めると、僅かなチョコレートを掴みとった。



「後はココアパウダーをまぶして、ラッピングして……完成です!」
「……出来た」
 リボンの付いた袋に、小さなトリュフがたったの三つ、ちんまりと入っている。たったこれだけだけれど、何とか自分で作ることが出来たのだ。
「霊夢さん、よく頑張りましたね。きっと喜んでもらえますよ」
 にこやかな笑顔で早苗は言う。ここまで出来たのも彼女のおかげだ。
「全部早苗のおかげよ。私は作り方すら知らなかったんだもの」
 そう言うと彼女は少し照れくさそうにはにかんだ。
「いえいえ、霊夢さんが頑張ったから出来たんですよ」
「そう、かな……えへへ」
「ところで、誰に渡すんですか? 急がないとバレンタインも終わってしまいますよ」
「うん、それなんだけど……」
 果たして紫はまだ起きているのだろうか? ここの所姿を見ていないし、そもそも起きていたとしてもこちらから会いに行くことができないのだ。
「うーん……どうやって会ったらいいんだろう」

 そう呟いた、まさにその時だった。
「霊夢ー、いるー? お茶ー」
 こたつから当然のように顔を出してきたのは、紛れも無く紫だった。
「――ちょ、ちょっと! いつからそこにいたのよ!」
「何でそんなに慌ててるのか知らないけれど、ついさっきよ。そろそろ霊夢が寂しがってるかなーと思って」
「そんなわけ無いでしょ! 全く……待ってて、お茶入れるわ」
 調理場に振り向くとニヤニヤしている風祝の姿。一部始終をバッチリ見られてしまった。
「なるほど……そういうことでしたか。邪魔者は退散しますから後はごゆっくりー」
「早苗! アンタまでからかうんじゃないの!」
「いやいやー今の霊夢さん可愛かったですよ? それじゃ、頑張って!」
「ちょっと早苗! もう……」

 早苗は言うだけ言ってそそくさと帰ってしまった。
 
 ――これで紫と私の二人きり。

 トクトクと心臓が脈打つ。チョコレートを袖に隠し、震える手で慎重にお茶を持っていく。
「あら、ありがとう。ここのお茶は美味しいのよねぇ」
「言っておくけど安物の緑茶よ、これ」
「じゃあ淹れ方がいいのかしらね。あぁ、美味しいわ」
「あんた、幸せそうねぇ……」
 紫は上品な仕草で口元へと運び、本当に美味しそうにお茶をすする。ついそのまま口元を見つめてしまい、薄紅色の唇にドキドキする。
「霊夢、どうしたの?」
 紫と視線が合う。――見つめていたことを気づかれてしまった。
「いや、その……別に何も……。そうだ!」
 誤魔化すように袖からチョコレートを取り出し、紫に押し付ける。
「あの! 今日バレンタインだから……」
「これ、手作りなのね。ありがとう、嬉しいわ」
 紫は受け取ると、一つ掴み、口に放り込む。
「うん、美味しい」
「本当?」
「えぇ、本当よ。お礼に私からもあげるわ……手作りじゃないけどね」
 手にしていたのは赤い、細長い箱。紫は封を切ると、中から一本取り出す。
「このお菓子にはね、ポッキーゲームって食べ方があるのよ。ほら、くわえて」
 言われるがままに、チョコレートのかかった方をくわえる。
「ほら、目をつぶって……味わって食べなさい」
 無理やり目をつぶらされ、手を握られる。こんな状況では恥ずかしくて、味わって食べるなどとてもじゃないが出来なかった。
 早く目を開けようと急いで食べきろうと口を動かす。すると、唇になにか柔らかいものが当たった。

 ――目を開けると、そこには紫の顔があった。

「――っ!?」
「霊夢ったら積極的なのねぇ」
 赤く火照った紫の顔はとても色っぽくて、頭の中が彼女に埋め尽くされていく。
 キス、した?
 その事実だけが頭をぐるぐる巡り、感覚が蘇ってくる。どうしたらいいのかまるで分からない。
「この……馬鹿ぁー!!」
 陰陽玉を全力で投げつける。一発目は避けられたものの、間髪入れずに投げた二発目、三発目は見事頭に着弾する。
「ちょ、ちょっと霊夢、落ち着きましょう? 話しあえば分かり合えるわ」
「覚悟しなさいよぉ……?」
 懇願する彼女を無視し、私は容赦なく四発目を撃ち込んだ。

「そこら中痛いわぁ……」
「……元はといえばアンタが悪いのよ、自業自得よ」
 思わず我を無くしてしまったことは悪いと思う。しかし、突然こんなことするなんて卑怯だろう。それなりの心づもりもしたいのに。
「もう、せめてちゃんと説明してよね」
「あら、説明すればしてもいいのかしら?」
 そう言うと紫は一片を加え、私の上に覆いかぶさる。彼女の長く綺麗な髪が、私の頬を撫でる。
「……だから強引すぎるのよ、馬鹿」
 私はもう一片をくわえると、ゆっくりと目を閉じた。


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